Dear NIPPON

親愛なるすべてのニッポン人へ

人としての在り方

Chers mes amis

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6月某日。

渋谷であるイベントが開催された。


仕事で付き合いのあるお客さんから、
社会勉強になるからということで、誘いを受けていた。


正直なところ、行くことにあまり乗り気ではなかったが、
せっかくのお客さんの誘いでもあるし、知り合い数人で参加してみることにした。


当日、会場は超満員。

人をかき分けながら進むのがやっとだった。
あまりの人の多さに一緒に来ていた仲間とはぐれ、一人迷子になる。


とりあえず、トイレに行こう。
そう思い、会場を一人さまよう。


なかなかトイレが見つからず、
会場のスタッフらしき人を見つけて場所を聞く。

 


「すいません、トイレはどこにありますか?」

 


急かすように聞く。

 


「トイレはこの先を進んで左手奥になります。
今日は女子便、男子便、どちらを使っても大丈夫ですからね」


「わかりました、ありがと・・・」

 


そう言われて、一瞬時が止まった。

 


(は?どちらを使ってもいい??)

 


このスタッフは俺をおちょくっているのか。

それとも、俺を試しているのか。


いくら俺の見た目が変態っぽいからって、

犯罪に手を染めるほど愚かな男ではない。

 

聞き間違えかと思い、もう一度聞き直す。

 


「どっちを使ってもいいって、
男が女子便を使ってもいいってこと?」

 

「はい、そうです。
今日のイベントは障がい者×LGBTの音楽フェスなので」

 


LGBTとは、セクシャルマイノリティのこと。
女性同性愛者(レズビアン、Lesbian)、男性同性愛者(ゲイ、Gay)、
両性愛者(バイセクシュアル、 Bisexual)、トランスジェンダー(Transgender)の
各語の頭文字をとった表現である。

 

まるでアリスが不思議の国に迷い込んだかのように、

場違いなところに来てしまったのかもしれない・・・

 

そう思ったのも時すでに遅し。

 

これまでの人生の根底から覆されるような出来事だった。

 

今日はそんな社会的マイノリティについて。

 

人生に「もし」があるならば・・・

 

その昔。
マザー・テレサはこう言った。

 


「愛の反対は、憎しみではなく無関心です」と。

 


この無関心というものが人間社会に偏った世界を作る。
まさに、それが偏見というもの。
そして、障害者やLGBTといったマイノリティの人たちはその対象になりやすい。


もう15年前ぐらいだったか、
3年B組金八先生セクシャルマイノリティを題材にしたシリーズがあった。


そこで「性同一性障害」の役を熱演したのが、上戸彩ちゃん。
ドラマとはいえ、生物学的の性別と性の自己意識が一致しないために、もがき苦しむ姿は、幼いながらもかなりの衝撃を受けたのを今でも鮮明に覚えている。


そして、イベントに参加している最中、
当時の記憶がリンクする。

 

 

もし、自分が性同一性障害だったらどんな人生を歩むのだろうか・・

 

突き刺すような偏見に満ちた周りの視線に耐えられるだろうか・・

 

自分だけならまだしも、親や兄弟といった身内の人たちにも悪影響を及ぼすことへの罪悪感はどれほどのものなのか・・

 

社会の偏見と自らが抱える罪悪感に対して、果たしてうまく折り合いをつけながら生きていけるだろうか・・

 


人生に「もし」はない。
だけど、この件に関してはその「もし」を考えずにはいられなかった。

 

まずは知ることから始める


イベントに参加している最中、
たくさんのLGBTや障害者の人達からいろんな話を聞かせてもらう機会があった。


一見、男性なのか女性なのか見分けがつかない人を目の当たりにして、
「男性ですか?女性ですか?」と、興味本位で思わず聞いてしまったことがあった。

 

(いかん!!めちゃくちゃ失礼なことを聞いてしまった・・・!!!)

 

そう思って、すぐに全力で謝った。

だけど、その人から意外な言葉が返ってきた。


「全然謝らないでください!むしろ、聞いてきてくれた方がうれしいんです。
腫物であるかのように、一切何も触れられないのが一番辛いんです」

 

そう言って、

楽しそうに笑う表情から、一瞬垣間見えた寂しそうな顔からその人の辛い過去を察した。

 

世の中には本当にいろんな人がいる。


LGBTや障害者の人。肌の色が違う人、崇めている神様が違う人、
好きな人、嫌いな人、苦手な人、尊敬する人、軽蔑する人、相入れない人・・・


こうした人、ぜーんぶひっくるめて、


自分と”違う人”を、「偏見」や「軽蔑」の目で捉えるのか。
それとも、「個性」や「自主性」として捉えるのか。


すべてはその人の受け取り方次第なのだろうね。


社会的少数者である「当事者」のことをああだこうだと議論するよりも、

圧倒的多数である「受け止める側」に大きな責任があるのだと思う。

 

「真の意味でお互い理解し合うことはできないかもしれない。
でも、”人”としての敬意を払い合いながら共存していける社会は築ける」

 

セクシャルマイノリティの問題に限らず、
人種、倫理、思想、宗教といった社会的な問題も含めて、
改めて人としての”在り方”について、深く考えさせられる経験だったね。


まずは相手を知ることから始める。

これが大きな一歩につながるのだろう。