世間に翻弄されない軸を持つ同士へ
今回で忠臣蔵から学ぶ人間心理シリーズは最終回。
ホントはもっともっと書きたいことはたくさんあるんだけどね。
とりあえず今回で最後ということで👍
忠臣蔵の謎その3。
世間の声に翻弄された”討ち入り不参加組”の悲劇。
こんな本がある。
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不忠臣蔵
井上ひさし 著
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この本は、東京の両国にある、吉良邸に討ち入りに参加しなかった旧赤穂藩士が、なぜ討ち入りをしなかったのか。その理由と彼ら19名のその後の生き様を一話完結で綴った短編集である。
この19名の討ち入りに参加しなかった者の中には、
大好きな女の未練を断ち切れなかった者。
老いた両親の面倒を見ることを選んだ者。
主君のために命を捨てるのは大バカ者がやることと考えていた者。
最後まで生きて主君の罪を償おうと考えていた者。
浅野家断絶により、旗本の婿養子に行くことが決まっていたため討ち入りを断念した者。
世間から討ち入りした浪士が義士と崇められる中、討ち入りに参加しなかったことで世間から蔑まれて、それに耐えられず切腹した者。
などなど、、、
19名のいわゆる”討ち入り不参加組”の、その後の人生ストーリーが描かれている。
そこには、悲しくも切ないストーリーが多く、実は、華々しく散った討ち入りした浪士よりも、深みのある死や無念の死がほとんんどである。
これはあまり知られていないことだけど、忠臣蔵以前にも、江戸城内での刃傷事件は3件あったらしい。そのいずれも忠臣蔵のように切腹、御家断絶だったそうだ。
こうした事実が今でも記録として残っているのであれば、間違いなく当時の人たちも皆知っていたことだろう。つまり、それを全部知った上で、浅野内匠頭は刃傷事件を起こしたということ。
ちょっと言葉が悪いのは百も承知で、、、
「テメーのメンツを保つために、テメーの私情で、テメーが勝手に斬りつけたこと。
いくら部下とはいえ、なんで俺が尻拭いをしなくちゃいけねーんだ?」
赤穂藩士の中には、そう思う人間がいてもおかしくない。
人間の解釈の仕方は十人十色なんだから、討ち入りに参加しないという選択も当然アリだよ。
ところが、そうは問屋が卸さない。
他人の不幸は蜜の味と言わんばかりに一般大衆は、
マンネリした平凡な毎日に起こった大スキャンダルに大興奮。
亡き主君の仇討を今か今かと待ちわびる期待感。
主君を失った赤穂藩士に対する同情とお涙頂戴のストーリー。
世間は勝手に話をでっち上げ、尾ひれ背びれつけて勝手に盛り上がる。
良くも悪くも、元赤穂藩士の一挙手一投足には、世間から注目を浴びることになる。
仇討ちをしても、最後は死罪は免れない。
生き残ろうものなら、世間から不忠義者と罵られる。
進むも地獄、退くも地獄。
まさにそんなイメージだろうね。
討ち入り不参加者の悲しい末路というのは、世間の声の犠牲者と言っても過言じゃない。まさに世間の声に翻弄された悲劇だね。
時に、大衆の声や評価というのは”凶器”になる。
そう思った時、真っ先に思い浮かんだのが「永遠の0」と「壬生義士伝」この二つの映画だ。
もしかしたら、あなたも観たかもしれないけど、
永遠の0は、太平洋戦争時代、宮部久蔵という零戦の搭乗員である主人公が、「非国民と言われようと、妻のために生きて帰る」という信念で戦い抜く物語。
壬生義士伝は、江戸幕末時代、無名の新撰組隊士である、吉村貫一郎という男が「どんなに蔑まれようと、金を稼いで家族を養う」という信念で幕末の乱世を生き抜く物語。
どちらも、「正義とは何か」について深く考えさせられる内容だね。
「人は誰のために生きるのか」
そんな究極とも言える問いに直面した時、最後の最後、人生というものを突き詰めていけば、人は、
「大切な家族を守るために生きている」
そう答えるのではないか。
とはいえ、ひょっとしたら今、俺らが生きる世界と別の時代に生きる人たちとを比べるのは、ルール違反かもしれないね。
というのも、事実っぽく誰かが脚色して作った映画や物語のようなフィクションと比べるようなものだから。
でも、だからといって、そういった歴史上のストーリーから学ぶことは無意味なのか?俺はそうは思わない。
自分以外の人間の生き方や考え方を疑似体験することで得られることはたくさんあるし、学べることもいっぱいある。
例えば、
人は病気になった時に初めて健康のありがたさを知る。
愛する家族を失えば、家族とともに暮らした日々が本当にかけがえのない時間だったとわかる。
事故や病気で体の一部を失えば、五体満足なことがどれほど素晴らしいものだったかを痛感する。
こうしたあたりまえの中に隠れる素晴らしさというのは、何もそれらを失わなければわからないということではないよね。
ちょっとした想像力と知識、そして自分ごとに置き換える解釈力さえあれば、今、自分がどれほど幸せな環境に生きているかを実感することができる。
忠臣蔵の時代。
当時では大事件と騒がれた出来事から300年以上が経つ。
今では、大衆娯楽のドラマとなって現代に語り継がれているけど、物語の中に生きてきた主人公である浪士含め、すべての登場人物はもう跡形もなく存在していない。
そこにはもはや、愛も憎しみも悲しみも欲望も、きれいさっぱり消え去っている。
そう思うと、それは今を生きる俺たちも一緒。
100年後には、あなたが一生懸命愛した女も、殺してやりたいくらい憎んだ男も、仲のいい友達も、価値観の合うビジネスパートナーも、最愛の子供も、誰一人この世にはいない。
あなたの描いた壮大な夢も、生き甲斐も、想いも、怒りも、悲しみも、絶望も、すべては幻の如し。
今、感じている感情や出来事の繰り返しの中で人生は過ぎていくけど、100年経てば、そんな思いも出来事も、もうどこにもない。
自分たちが100年前の曾おじいちゃんのことをほとんど知らないように、100年後の世界で自分たちのことを覚えてる人もほとんどいないだろう。
だから、時々俺は辛いことや悩みごとがあったりするとこう思うようにしてる。
「こんな悩みも、100年後には幻のように消えているんだろうなぁ」って。
たぶん300年前の人たちも、いろいろ悩んできたんだろうね。
そして、きっと100年後の人たちも、今の俺と同じようにささいなことで悩んだり、苦しんだりするんだろうなと。
そう思うと、自分が今置かれている状況や悩んだり、悲しんだり、喜んだりできる人生というのが、なんだかとても愛おしく思えてくるのは俺だけかな?
おっと、なんだか悟りっぽくなっちゃったねw
ま、高野山での修行の後遺症ということで。笑
さて、4回に渡って書いてきた、忠臣蔵から学ぶ人間心理シリーズはどうだったかな?
少しはあなたのタメになった?自分に置き換えて改めて考えてみたことや、何か思ったことはあったかな?
何かしら気づきを与えられたのならうれしいね^^
最後に、
大好きなブルーハーツのTRAIN-TRAINの歌詞の一節より。
///
世界中にさだめられた、どんな記念日なんかより
あなたが生きている今日は どんなにすばらしいだろう
世界中に建てられてる、どんな記念碑なんかより
あなたが生きている今日は どんなに意味があるだろう
///
日々死ぬ覚悟を持って、潔く散る美学がある一方で、
何がなんでも最後まで生き抜く勇気もまた、武士道の本質だと俺は思うけど、あなたはどう思う?
-完-
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