Dear NIPPON

横浜ではたらくマイクロ法人社長のつぶやき

”宗教”とはあなたにとって何を意味する?

お楽しみ様です。
野村美徳です。

 

今日は少し長編です。

あなた自身に置き換えて読んでいただけるとうれしいです。(^ ^)

 

 

    その豊かさマインドはどこから来てる?

わたしはよく、

「その事柄の本質は何だ?」「その行為の原理原則とは何だ?」

このようなことをライティングの師匠から問いただされます。

 

わたしはこうして生きていて、よく思うことがあります。
それは、


「世の中には肉体的に健康で豊かなマインドを持ち、かつ金銭的に裕福な人たちは人生の本質、原理原則を常に意識されている」

ということ。
そして、それを日々実践されています。

 

以前にも少し書きましたが、
わたしは生粋のchristianではありませんが、聖書からとても多くのことを学んでいます。
そして、

キリスト教を信仰されている方たちへの敬意の念も持っています。
なぜなら、
彼らの多くは、聖書に書かれている人生の原理原則を身をもって実践されている方たちがとても多いからです。

 

聖書は、人類最古の自己啓発本と言われています。
そこには、自然界の原理原則、人生の本質、道理、倫理的価値観、などが書かれています。

実際にキリスト教徒の方たちとお会いすると想像以上に、人格者であったり、物腰のやわらかいひとが多いです。それはひとえに聖書に書かれている教えを実践しているからに他ならないのだと思います。

 

         高野山での日々

わたしは以前、仏教の真言宗総本山である高野山のある宿坊で僧侶の見習いとして働いていました。
真言宗の開祖である空海から始まった教えを現在に至るまで1200年以上脈々と受け継がれています。


そこでもやはり、その教えを日々実践されている方々が数多くいらっしゃいます。

そのような光景を目の当たりにすると、本当に頭が下がる思いを抱きます。

 

わたしが以前勤めていたお寺は毎朝6時に朝の勤行が行われています。

雨の日も風の日も嵐の日も雪の日も関係なく365日毎日行われます。

そして、お寺に泊まられる宿泊客はその勤行に参加することもできます。

 

勤行の最後には住職の説法があります。
その内容をいま思い返してみてもやはり素晴らしい教えなのです。

 

「来世や過去世ではなく、いまをどのように生きるか」

 

そのようなことをお話されます。(この記事をお読みの方へ。ぜひ、高野山の宿坊体験をしてみてください。わたしが以前勤めていたお寺をオススメしたいのですが、宣伝目的になってしまうのでここでは明記しません。どうしても知りたい方がいらっしゃれば個別でお教えしますね)

 

          宗教の本質

わたしは宗教というものをこのようにとらえています。

 

「世の中の原理原則に従い、よりよい人格を形成していくための、この世の手引書である」

 

なので、

わたしからすれば、あなたが何教で、何派で、どこに所属しているかなど、
全く意味を成しません。
また、

来世はどうなるのか、わたしは何かの生まれ変わりではないか、といった考えにも全く興味がありません。

 

「これらの教えを踏まえて、いま、あなたはどのように行動するか」

 

それが全てだと思っています。

しかし、
世の中には人を騙したり、洗脳したり、操ったりするような新興宗教がいつの時代も存在するのもまた事実です。

宗教=怪しいもの、と結びつけたくなる気持ちもわからなくはありません。特にここ、日本ではそれが如実に表れていますよね。

 

しかし、
そのことを差し引いても、

より良い人間関係を築きたい、豊かなマインドを形成したい、実りある人生を送りたい、と、

ほんとうに真剣に生きている人たちのほうが圧倒的に多いという事実も知るべきです。

 

わたしのことを昔からよく知っているひとがこの記事を読むと、
ひょっとしたら、
”なんかあいつヤバいんじゃないか”と心配されるかもしれませんね。笑

 

大丈夫です、何も心配いりません。
わたしは至ってシンプルな人間です。

 

はっきり言って、
わたし自身のことをどう思われようが、そんなことはどうでもいいです。

ただ、
そういった崇高な精神で生きる人たちのこともよく知らないで、自分の凝り固まったフィルターだけで物事を考えることへの危うさ、
自分の人生を豊かにできるチャンスを自らみすみす逃してしまうのはなんともったいないことか、
そのように強く思わずにはいられないのです。

 

わたしにはこのように発言できる場があることはとても幸運なことです。
私たちが生きるこの世の中は想像以上に多様性に満ち溢れています。

 

そのことを決して忘れてはいけないのです。